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薦田雄一 – 木工房 moqu c0mo(モクコモ)

島の山の風景を守る木工作家
ごつごつした表皮がついたままの杉や桧の丸太。それをチェーンソーでくり抜いた植木鉢が、街暮らしの人にも山の肌触りを伝えてくれます。

この「森のポット」の作者は、糸島の木こりの家に生まれた、木こり兼木工作家の薦田雄一さん。愛称「コモさん」は、多くの人たちに糸島の山のことに心を向けてもらいたい、と、地元木材を使った作品づくりを続けています。また、自らチェーンソーを持って山に入り、森林の保全にも汗を流しています。

「森のポット」が人気ですね。今はどんな活動をしていますか?

森のポットは、地元作家の商品を扱う「糸島くらし×ここのき」のアイディアで商品化した植木鉢です。山で切り倒した杉や桧の細い丸太を、その場でチェーンソーでくり抜いて作ります。山の中で作業したら、たくさん出る木クズも土に還せます。だから現地で作ります。
自分は木工作家ですが、山の環境を保全するために間伐も行います。間伐とは、山が健康な状態で保たれるよう、杉や桧を間引く作業。それを行わないと、ひょろっとした木が密集した荒れた山になるし、土砂災害も起こりやすくなる。自分は「山に一番近い木工作家」だと自負しています。

お父さんが木こりの仕事をされていたそうですね。継ぎたいと思っていたんですか?

絶対にイヤでした(笑)
うちは本当に貧しくて。今だったら大問題だけど、4歳くらいから山の力仕事を手伝わされていました。父が木を切り倒し、4m程の長さに切った丸太を、自分と兄が運搬用そりに乗せてロープで縛る。それを急斜面を下って林道まで馬に引かせるという重労働でした。それだけでなく、自宅の風呂や釜戸の燃料となる薪の薪割りも兄弟の仕事でした。

そんな作業中の楽しみは、木の中から出てくるヤナギムシという幼虫!これが最高のおやつでした。本当においしいんですよ!ちょっと炙ったら表面はエビの味、中はとろっとコーンポタージュ風味です(笑)。同級生は家でゲームで遊んでいるのに、自分は薪割りです…。時代に取り残されたかのような劣等感がありましたから、中学時代には反抗して金髪にしたりして…。だから、家業を継ぐなんてとんでもない。どうにかしてそんな生活から抜け出したいと思っていました。

どうして木工作家になったのですか?

木こりの家に生まれたから作家活動を始めたのでしょう?と言われることもありますが、違います。山の生活から離れたくて、高校卒業後は職を転々としていました。都会の生活にも憧れていたので、東京にも働きに出ました。でも、どの仕事も長続きしなくて…。当時はとても気性が荒くて、すぐに上司とぶつかって辞めていました。しかし、一つだけ辞めずに勤めた会社があります。糸島にあったエノキ栽培工場です。エノキは白くて細長いきのこですけど、自然にあの形に育つわけではありません。しかも、エノキ栽培はかなりの肉体労働で過酷です。「働かざる者食うべからず」という親の教訓が染み付いていたのでしょう、12年間、誰にも負けないくらい働きました。エノキの品質をもっと改良して利益率を上げたいと、頼まれてもいないのに2年半近く休みも取らずに栽培方法の研究に没頭していました。栽培を巡ってよく衝突していた社長にもようやく認められ、最高のエノキを一緒に世に出そう!と希望に燃えていた入社12年目のこと。ある朝、出社すると、社長が工場の床に倒れて冷たくなっていた。夜の作業中の事故で亡くなったんです。第一発見者は僕。呆然と立ち尽くしました。社長はいなくなり、会社も借金まみれで、工場を畳むしかない。僕が育てたエノキは「おいしい」と同業者にもすごく好評でしたが、誰も僕に「一緒にエノキを栽培しよう」と声をかけてくれなかった。「がむしゃらに働いた12年間は何の意味もなかった。」と、人生のどん底に突き落とされました。

でも、妻も子もいるので生活のために求職活動を始めました。ある日、ハローワークの職員から「木工をやってみたら?」と言われ、糸島のとある木工房をふらりと訪ねました。その工房で自らの不幸を嘆いたら、全く予想してなかった言葉が返ってきました。「良かったね。自由になったんだから、本当に生きたいように生きる人生のチャンスだよ!」目が覚めるような衝撃でした。「自分は好きなことで生きていいんだ」と。それをきっかけに気持ちが前を向き始めます。木工作家のところに足を運んでは「弟子にしてください」と頭を下げました。結局はどこからも断られたけど、「弟子ではなく友だちとしてなら付き合える」と言ってくれた作家の元で木工技術を学び、今の活動につながりました。

作家活動のスタートは順調でしたか?

初めての作品は木の笛。楽しくはありましたが、生活費のために、日雇いで間伐の仕事もしました。日当も悪くないし、山仕事の経験もある、そんなシンプルな理由で、再び山に入る生活が始まりました。
ところが、そこでの仕事は、幼少期に見ていた山仕事とはまるで別物でした。稼ぐためにひたすら木を切り出す作業ではなく、山を保全し、故郷の資源を次世代につなぐための山仕事。その間伐作業を請け負っていた「糸島市林業研究クラブ」に自分も加わり、山のことを深く学ぶようになります。

杉や桧の山は、木材を生産するため何十年も前に植林した人工林です。人が手入れしないと山全体が荒れてしまう。しかし、国産木材の価格が値下がりしてからは、山仕事をする人は減り、糸島の山も荒廃しているのが現状です。

それまでは、山や自然環境のことを考えたことがありませんでした。どうやって稼ぐかばかりを考えていました。しかし、糸島市林業研究クラブに入ってからは、当たり前に眺めていた故郷の自然や風景は、人の営みによって維持されていることに気づくことができました。「人生の第二章が始まった」と言えるほど、価値観が一変しました。今は、農の風景、山の風景を守ってきてくれた地元の人たちに敬意の念を持っています。以前は大嫌いだった父親も、山仕事の際には「変な切り方をして山を荒らしたらいかん」と、伐採にはプライドを持っていたことも、振り返ってわかりました。
こんな経緯から、木工で使う木材は、山の手入れで出た間伐材を使うようになりました。間伐材を活用して、循環を生み出したいと考えています。

これからの夢はありますか?

故郷の自然を守りたいと思うようになってから、たくさんの仲間に出会えるようになりました。特に、「THINNING(シニング)」というイベントの存在は大きいです。英語で「間伐」を意味するのですが、山の荒廃問題をマーケットを通じて幅広い人たちに発信しようという不定期開催のイベントです。アウトドアブランドや糸島内外のショップ、作家たちが出店します。僕が山の問題に気づいた頃に仲間が立ち上げた企画です。今思えば、奇跡的なタイミングでした。僕は、実際に間伐している唯一の実行委員として、地域と山とのつなぎ役というポジションを意識して関わっています。

今、糸島は、観光とか移住とかでブームですよね。だからこそ、表面的な良さだけでなく、その風景を守ってきた地域の人たちの営みを大切にしてほしいです。糸島で暮らし続けることが、糸島のいい風景を作りだす、そんな仕事を続けたいと思っています。

最近、「恩送り」という言葉を知りました。誰かに優しさや愛をもらったとき、自分の身近な人に同じように送っていく。すごく素敵なことだと思います。自分だけでは小さなことしかできないけれど、恩送りであたたかい気持ちが人から人に伝われば、きっと叶うんじゃないかな。地域や仲間たちへの感謝を、糸島の土や光、水や風を大切に丁寧に扱っていくことで恩送りしていったら、きっと心地いい故郷、心地いい地球になるんじゃないかなと思います。

Writer’s Comment

大型機械が並ぶ無骨な作業場には心地よい音楽が流れ、私たちのために用意してくれたポット入りのコーヒーとカップがテーブルに置かれていました。野の花や仲間たちの悲喜交々に寄り添うような投稿が多いコモさんのSNSから、会う前からその人柄に惹かれていました。取材を通して知った笑顔の裏にある過去の挫折。「乗り越えられたのは、人との出会いで気づきやチャンスをもらったおかげです」。心の奥深くから湧き出る感謝と謙虚さが、温もりある作品の源泉だと感じました。

Interview: Leyla / Photos: Seiji Watanabe

Category
Maebaru - 前原エリア
Published: Jun 1, 2022 / Last Updated: Jun 6, 2022

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